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堀直虎公遺臣「市川節造」

2018年11月6日 古書, 塩屋にあるちょっと古いもの

塩屋に伝わる古文書から明らかになった幕末のお話です。
須坂藩13代藩主「堀直虎公」・・。
昨年の大河ドラマの余波もあって、だいぶ有名になりました。
没後150周年ということで、様々なイベントが開催され、顕彰されました。
一方、その影で、直虎公の遺志を守り数奇な人生をたどった遺臣のお話は余り知られておりません。

(以下、長文になります。一部不快に思われる表現があります。)

堀直虎公遺臣「市川節造」
若年寄堀直虎公が江戸城で将軍にナニカを換言して城中で自刃したのは皆さんご存知かと・・。
その後、須坂藩は新政府よりに立場を変えていくわけですが・・。
亡き殿のご遺志と違うということで、藩の方針に従わなかったのが、
江戸詰めの最側近、中野五郎太夫(代々側用人の一族)、竹中清之丞、市川節造。
三人とも死罪を言い渡される訳ですが、一番身分が低くて若かった市川だけ脱藩。処刑された同志から遺志を守り、伝えることを託されたのか・・、活動を開始します。
まず、上野彰義隊に入隊し新政府軍と交戦、敗走後、各地を転戦して奥州に潜行。謹慎中の慶喜に会おうと水戸城に赴くも果たせず。ひそかに江戸に戻ったところを捕縛されます。
亀戸の旧藩邸の牢獄にて切腹を命じられるも、宿志を遂げていないということで脱獄。
どこから?
なんと厠の・・・。
主君の為、同志の為に生きなければならない使命感は凄まじいモノがありますね。
その後、亡き殿の遺志を伝えようとチラシを印刷して須坂藩内に撒布。中野・竹中、そして彰義隊他賊軍として亡くなった仲間の供養塔を建設等々、全国で活動。
父親が人質に取られたため、自首して禁固二年。釈放されてからも活動は続き、
その様子は明治26年の「信濃毎日新聞」の記事にも掲載されるほどでした。
脱出後、市川が好んで使った肩書きは「圊脱居士」「圊厠・・」・・。
誰もが想定しなかった場所から脱出、そのまさかをやってのけた事は彼自身の誇りだったのかもしれません。
※圊、厠(両方トイレのことです)
※直虎公の自刃した当日の最後の書を所持していたのは市川節造。当日、刀番として江戸城にお供していたのも市川と思われます。
塩屋に伝わる未公開だった古文書(中野家文書、前述の中野五郎大夫一族。塩屋の親戚です)をもとに地元の郷土史家が「市川節造」について寄稿されています。
詳細は「郷土史研究会発刊 須高86号」をごらんください。

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